内省していくうちに無気力の正体が分かって,少し気が晴れました.

今まで自分でも意味が分からないくらい気力がなかったり頭が回らなかったりしたのですが,友人ができ話を少しずつするようになって,それまでの自分が孤独で悩んでいたこと,それすら自覚していなかったことが分かりました.

そしてこれからは友人もいるし(繋がらないけど)頑張ろうという気になります.

ずっと,自分は頭が壊れているという劣等感や,何のために生きているのか分からないという,疑問すら明確でない悩みがあって,死にたくなっている.

8年以上も前から継続的な仕事もしていないし,学校にも行っていないし,どこかに属する当てがほとんどなく孤独で,このままで良いのだろうかとずっと思っている.

他人からよく責任という形で,怠慢さという理由を私の中に求めて言い責められたりする.でも,私はそんなことが原因だとは思っていない.認識が違う.自殺衝動に繋がる強烈な劣等感・嫌悪感が頭の中にずっとあって,覚えていられないほど何年も前に他人から向けられた悪意の,私が抱いた嫌な感情のことだけをずっと覚えている.

それで本当に苦しんでいるのに,誰もその深刻さを分かってくれない.ただ私が怠け続けていることが全ての原因だと思っている.

もうたくさんだ.私はおかしいのか?どうすれば全て忘れられるのか?どうすれば塞ぎ込むほどの落ち込んだ感情から抜け出せるのか?本当はみんなの言う通り私がただの怠け者なだけなのではないのか?だとしたら,いや,どちらにせよ死にたい.

倫理観を感情を排して説明してみる

日常生活で法律を遵守する観点だけで考えれば、虫を殺したり植物を伐採することに何も問題はないけど、個人的には利害関係のない生き物を粗末に扱うことにかなりの抵抗がある。でも線引きが明確でないし、何を根拠にしているのか自分でも考えれば考えるほど分からなくなってくる。

この考えを自問していくと、私の倫理観は、感情を排して説明すれば、自然であること、均衡であること、状態の維持と復帰の構造を壊さないことが拠り所になっていて、そこから無干渉や環境の保全意識に繋がる。

今まで明確に意識したことはなかったけど、これらの根底には斉一性を原理に捉えており、環境が斉一性を維持することを指針にしている。さもなくば、生活する上で理性を使って根拠を組み立てて思考し行動できなくなる。

午後8時、買い物からの帰り道を歩いていると、近くの小川からやってきたのかオスのハグロトンボが目の前をヒラヒラと横切っていき、街灯の灯りがチカチカと金緑色の体表を反射させて、周囲の鈴虫のリーンという静かな空間を際立たせる音も印象的で、視覚と聴覚から冷たく整った順列のリズムを感じた。

自殺する方法を考えている.

以前アセトアミノフェンを過料服薬したことがある.発見されたため死ねなかった.今度は発見されないようにする.でも途中で苦しくて耐えられなくなったら?自信がない.

飛び降りは,地面にぶつかった後も最後まで意識があったらどうすればいいのか?怖い.

首を吊る場所がない.

生きていてもどうしようもない.何のために生きているのかわからない.

毎日,くだらないことに忙殺されたり何も考えられないせいで何もできなかったり,時間が浪費されていく.

私以外の人生では,確かに苦痛は一定以上はあるけど,それでも概ね私より充実した毎日を過ごしている.

死にたい.