生存欲求を失うとき

他人には当てはまらないかも知れないことを事前に断っておく。
一瞬でも死にたいと思ったとき、生きるために必要な細かな感覚が徐々に失われていくことに最近になってようやく気付いた。
その感覚は例えば一般的な衛生観念だったり、身体が一番動きやすくなる呼吸の頻度の感覚だったり、個々の例を挙げることはできるけどそれぞれで独立したものなので、本来は結びつけて考えることはできない。
しかし根底にはまともに生きていたいという漠然とした考えが共通して存在する。その大きな前提が揺らいだとき、生存欲求を支える細部が消耗していく。
また、主観的な感覚でしかないので証明のしようもないが、死にたいという自暴自棄な欲求は苦痛から逃れるための欲求でもあり、自分の感覚を麻痺させて苦痛に耐える働きをもっているのではないのだろうか。
だから細部の感覚を取り戻そうと決意するたびに、今まで考えないことにしていた強烈な痛覚がよみがえってくると本能的に恐怖しており、躊躇いが回復の妨げになっている。

でも蓄積した負債を一気に払拭するにはそれらの苦痛を覚悟した上で苦痛の原因を自分の中の無意識の諦めに探っていくしかない。最後の言葉は強力だが間違っているので自分にしか突きつけないが、本当に死にたいと懇願したのならそれができるはずである。

もし過去に戻れたら

「子供の頃の自分とたくさん話をしてみたい」という言葉が世の中にはあって、はじめて聞いた瞬間、その考えに深く同意した。

無邪気で天真爛漫で混乱の中にいた自分が何を考えていて何に興味があって何から押し潰されていたのかを知りたい。そして、子供の頃の私が話し疲れて眠ってしまうまでずっと会話の相手をしていたい。話し相手が自分だからこそ自分の翼を広げる作業を手伝ってあげたい。

今なら自分が目を逸らし続けてきたグロテスクな内面と向き合える、そんな気がするときがある。

同時に、言葉や思考はこんなにも自由かつ単純であるのに、これに類似する考えを今まで独力で持てなかった自分を愚かだと恥じた。

無線技術や関数解析に対する思い

小学5, 6年だった頃、無線技術がもう本当に好きで好きで仕方がなくて、もう無線技術と結婚してしまいそうな勢いだった時に父が
無線従事者免許証を持っていることを知って(アマチュア2級?確認しないと不明)興奮して話しかけたのに父が「仕事で必要だったから」としか言わなくて、当時私は相手も自分もこのままでは嫌な思いをするだけだと悟って、急激に興味が消えて、無線に対する考えも封印してしまった。

具体的には、知識の小競り合いを互いが避けるための空気だった。

でも最近になって友人ができて、その友人が音響技術の話をしたので、あの頃の興奮が蘇ってくる。そして今はもうあの頃の嫌悪感がない。純粋に技術と向き合える。そんな確信がある。

学問に求めるものについて

昔の自分と今の自分とでは感性が違う。
子供の頃の私が、子供らしく華やかさや楽しさを求める目的でジャーゴンに溺れていたのに、今ではその衝動性を否定するようになり、子供の頃の幻想を粉々に打ち砕くためにかつてのジャーゴンを理解しようとしていて、それが終われば今度はまだ未解決の難題に立ち向かっている。
それに、その時の冷静な自分が好きだ。昔の自分では予測不可能なところが、今まで持っていなかった考えを作り出した感触がして好きだ。この感情もいつか捨てるかもしれないけど。
でも未解決の問題は重い。圧倒される。問題そのものは生まれたときから少しも動いてないはずなのに、それに過去から未来までを見透かされている錯覚に陥る。そのときの自分の無力さを観察する自分も、遥かに強かな未解決問題も好きだ。

今はプログラムを書きたい気分ではない。

問題を解いていると、その問題に対して網羅的に解法を考えている自分が攻撃的な喜びを持っていてどうしても落ち着かない。

仮にこの感情が攻撃性を帯びていたとしても、被害者はただの問題である。解決されるために存在しているのだし、問題そのものもただの文章だったりセンテンスの抽象的な並びだったりして人格を持たない。

無意味な自意識だと分かっていても自分が幼い落ち着きのなさで興奮しているという考えが頭を過ぎっただけで気力が失せる。

もっと冷静であるべきなのに冷静でいるために必要な本能的な動機が自分の中に見当たらない。

逆に自分が問題を解いている時どうありたいのかを具体的に考えてみる。単純に問題を処理するためだけに頭が働いていて、興奮も喜びも焦りもない。そのためには問題以外に何を考えていればいいのか。または何を考えないようにするべきなのか。

まったく見当が着かない。

15時56分

パラノイア

パラノイアというほど深刻ではないけど、自分の感じる嫌悪感の正体が分からなくなることがある。

例えば、この土地に住んでいたくないという感情がそうだ。ここにいると、この土地に結びついた過去の経験が想起されて嫌な気分になる。それに近隣住民にも何ヶ月か前に騒音の苦情を出したので仲が悪い。

しかしそれが本当にこの土地から出て行きたいことの理由になるのかどうか、自問自答すると確信が持てない。父によれば、近隣住民と仲が悪いのは確かだが、それで住む場所を変えるほどではないし、引っ越したいというネガティブな理由を他人に押し付けているだけだという。私も父の言う通りだと思う側面があるが、それでもこの土地から出て行きたいと思う気持ちが強いのも確かだ。

7月のはじめに東京のとある勉強会に行った。下宿先の狛江は特別綺麗な街という訳ではなかったが、ここよりは整っていて居心地がずっと良かった。

今いる土地はそうではない。手入れのされていない不潔で鬱蒼とした林があちこちで生い茂っている。埃まみれでところどころ倒壊した色褪せた廃墟が立ち並んでいて、道路はコンクリートが割れて間から茶色に枯れた草が伸びている。暗い気分になってずっと気持ちが塞ぎ込んでしまう。こんな場所に住んでいたくない。しかしこれも決定的な理由にならない。

それに土地に関することだけが悩みの本質的な理由ではなくて、他にも自分ですら何が嫌なのかはっきりしないものが時折ある。

他人を見ていると、どんな些細な行動にでも曖昧さのない裏打ちされた目的をもって動いていて、それは活動の一貫さで表れている。

私にはそういう意志の強さが足りないんじゃないのか?でもどうしたら、自分の感情をはっきりと捉えることができるのか。

むしろもう、嫌悪も喜びも含めて一切の感情を捨て切って、ただ穏やかに、どんな状況でも淡々と暮らしていたい。そうすれば、どんな場所であっても過ごしていられる。

でもそれは生きている意味はあるのか?

動き出せない理由

このまま何もしていないと生活が破綻すると分かっているのに、自分がとても無力な存在に思えて、何をしても無駄で、苦痛ばかり増える一方なのではないかという強い不安があり、動き出せずにいる。

例えば身近な例を出せば部屋の掃除がそうだ。今日は一応、1階のフローリング一面をウェットシートワイパーで拭いたが、これを毎日できるかというと不安で仕方がない。

今年の春季に応用情報処理試験が名古屋であった。以前はそれに向けて勉強し、自己判断で合格ラインを超える水準を維持していたが、肝心の試験日になると、とても自分では合格できないのではないかという不安で頭がいっぱいになり、家から出ることができなかった。

どうすればこの不必要に後ろ向きな考えから逃れられるだろうか。そのネガティブさを振り切ったところで、生活水準がすぐに、恒久的に向上するわけではないことは分かっている。しかし、ネガティブであり続けている限り、生活水準が向上することは絶対にありえない。だから私は、(見当違いかもしれないけど)自分に対する自信が欲しい。

そしてその考えさえ他人任せなのが情けないが、自分に対する自信を適切に持つために、他人から人格を肯定してもらいたい。仮にそういう奇特な人がいたとして、その人に、私のいけないことはいけないと指摘されつつも、信頼関係が破綻しないような、そんな人間関係がほしい。そうすれば、安心して自分の行動のだめな部分を変えられる。